12月8日公開の映画「市子」を鑑賞した。
この映画は川辺市子という女性を巡りプロポーズした男性の目の前から突然姿を消してその後川辺市子の本当の真実を知るために知っている人を巡った先に驚愕の真実を知るストーリーである。
人の尊厳人の存在を示す為に本当に必要な事と様々な問題と向き合わなければこのストーリーだけでは片づけられない作品である。
川辺市子とは何者だったのか?というより川辺市子の存在について考えなければならない作品なのだと思う。これはストーリーの中で書いていくけれど、この日本では戸籍に登録が無ければ日本人でも外国人でもない無国籍の人が存在してしまうという現実がある。海外では日本のような戸籍制度はないのだけれど、どうしてそういう事になってしまったのか?どうしてそうしなければならなかったのか?をまず知らなければこの作品を語れないのではないかと感じる。
そして川辺市子はどうして姿を消してしまったのだろうか?レビューしていきたい。
キャスト&ストーリー
結末は劇場で観てほしいけれど、今回のレビューとして川辺市子は恋人の長谷川義則からプロポーズを受けた。その時は嬉しいと涙を流した市子だったが翌日市子は突然行方をくらました。
義則は突然姿を消した市子の事を受け入れられずその理由もわからないまま数週間が過ぎた時にある刑事がやってきて市子について聞かれた中で市子という人物は存在しないという話を受けて衝撃を受けた。
この時点で市子が存在しない人物という話になる事がまず義則も理解できず実際に川辺市子という人物は戸籍上存在しないという事実だけを知る。
その情報を頼りに市子を知る人物を義則は訪ねていく事になる。
ここで明かせるのは川辺市子は無戸籍の子供であるという事だ。日本では出生と共に出生届が出されるのが通常だが、川辺市子の場合は母親が前夫からDVを受けていたために次に付き合った男との間にできた子供を出生届を出すと前夫の子供となる為に出生届を出さなかったという事情だ。
無戸籍になると銀行口座やマイナンバーカード、保険証、そして結婚も就職もできないという殆どできる事が無いという状況だ。今では生まれてからマイナンバーカードがそのまま交付されるという事から次第にマイナンバーカードが身元証明になっていく事になりますが、それでも戸籍制度は日本と中国にしかない制度であり、戸籍がないと日本国籍としても証明するものがないという事です。
当然国民のデーターベースにも存在しない以上は存在自体がない状況と言っても過言じゃないと言えます。
故に市子が風邪をひいても病院にもいかず、結婚しようと言われても突然姿を消したのは市子が無戸籍で結婚する事ができない、保険証が作れないからでもあります。ならどうして市子は学校へ行く事ができていたのか?という事になるのですが、これには特殊な事情が語られるのですが、市子には妹に障害を持った子供月子がいました。
しかし寝たきりの月子は家から出る事もできず、酸素吸引しなければ生き続ける事ができないほどの状況でした。市子は月子として学生時代に通っていたという事が明らかになっていきます。
通常市子と月子は2歳ほど違いますが身長が低ければ仮に2歳上だとしても誤魔化す事が可能と言えば可能ですし、何より月子を誰も見た事が無ければ市子を月子と認識しても不思議はありませんし、学校側も市子の存在は戸籍にはないので月子が市子と知らずに接していたという事になります。
この事情だけでもかなり特殊な事情であり、無戸籍になってしまった理由も理解できる訳ですが、逃げなければならなくなった理由もまた悲しいものでもありました。
その後に起きた出来事については劇場で観てほしい所なのですが事件が起きる前に市子は小学生時代、中学生時代、高校時代と様々な人たちと接しています。
この時は市子ではなく月子という名前で生きていただけに後に市子という名前になっていた事を知らないものすらいました。無理もなく当時は月子と名乗っていたために市子と聞かれてもピンとこなかったのも無理はありませんが、その中のエピソードから同じ学年なのに年上に感じた事や、母親についての事などが聞かされる訳ですが、母親も生きる為にスナックで働き続けたものの次第に生活があれてしまった故に市子とは疎遠になってしまいます。
そして市子は高校の時にある決定的な事件が起きてしまう訳ですが、1つについては月子の件についてはこれはかなり同情の余地があると言ってしまえばそれまでなのですが、もうこのまま月子は生き続ける事は正直困難だったと言わざる得ないのが現実だったと思います。
介護する事の大変さを理解するならばもう市子も母親も限界を超えていたというのが率直な気持ちだったと思います。酸素給油しなければ生きられないほど月子は衰弱していた事からもこれは手をかけるかけないの理由は結果論になりますし、これ以上延命する事についてその是非と尊厳は考えなければならないのではないかと感じます。
本来なら届けなければならなかったのですが、冒頭でも説明している通り市子は月子として学校に行っていた事から表向きは月子として生きる事になりその遺体は10数年間隠ぺいされる事になります。
この状況を考えた時に市子に戸籍があったなら届け出を出せば少なくても家族が罪に問われる事は様々な状況からして罪に問われなかったのではないかとも感じます。
しかし無戸籍の市子が月子として生きる事になった事で市子の人生は大きく暗転していきます。その頃出会ったのが北秀和という高校の同級生が唯一市子の事を知る人物として浮上してくるのですが、それまでに市子を知る吉田キキ、田中宗介、山本さつきと義則は会うものの田中宗介、山本さつきは市子ではなく月子として接しており、吉田キキの時には市子と名乗っていた。
時系列で田中宗介と北秀和は同じ高校で面識がある訳ですが元々は宗介の恋人だった市子は家の事情を話す事すらせず当時入り浸っていた母親の恋人とは対面しているもののそれ以上の事は知らない状況で、吉田キキは高校卒業後に義則が出会う前に共に暮らしていた人物でした。
しかしそこでも市子は突然姿を消している訳ですが、その理由は北秀和が握っていたからにほからないという事です。当時吉田キキとケーキ屋をやるのが夢だったと語っていたのに突然姿を消したのは北秀和が市子を追いかけてきたという理由に他ならなかった。
無戸籍である以上は市子は普通の会社に勤める事は不可能なのでどうしても新聞配達のアルバイトをするしかなく、携帯電話も変える事ができない為に零細企業の新聞配達ぐらいしかやる事ができない中で市子はその後に義則と出会っている。
そして義則は市子の事を知る母親の居場所を掴んである場所に向かうが、果たして市子は何を手にしたかったのだろうか?
結末は劇場で観てほしいけれど、本当に考えさせられる作品でした。市子は普通に生きたかったけれどそういう生き方が許されなかったそれ以上はないという事でもあります。市子の母親がその真実を語った時にこれはどうする事もできなかったという事を感じましたし、無戸籍の人の戸籍を作るって本当に容易な事ではなく支援者の協力があっても困難な事だという事も知るのですが、生まれた証明する書類がなく、身内がいないとなると証明するものすらない。今でこそDNA鑑定で親子証明できる時代にはなったものの、川辺市子は事件の事情からそれもできなくなりもう生きる事そのものが難しくなってしまった事が実に悲しい。
市子はそれでも生きる為にある行動を起こす事になるのだが、現実問題として今のマイナンバー制度により2024年秋に保険証が廃止となる為に市子は市子でない人物としてマイナンバーを取得するという事になっていくようだが、確かにこの方法なら取得できないとは限りませんがかなり危険な賭けです。市子はこの世界で生きる事がどれだけ困難で難しいものなのかをラストシーンでより難しい現実に直面する事になります。
総評として川辺市子をどうしたら救えたのだろうか?というのがこの作品を観終わった後に考えたものです。今は生まれたら即マイナンバー番号が発行される事になっておりいずれ日本では戸籍制度が無くなっていくようになるようですが、日本で戸籍がない人が生きる事がどれだけ困難な事であり、どれだけ生きる為にしなくても良い事をしなければならなかったのかを考えた時にこのような戸籍のない人が発生しない為の制度設計が本当に必要なのだと痛感します。
事件が無かったなら川辺市子を救う事ができたのか?と問われると正直なところ救えたとは言い難い面もあり改めて川辺市子を救えない日本の現実を考えさせられました。
この映画は川辺市子という女性を巡りプロポーズした男性の目の前から突然姿を消してその後川辺市子の本当の真実を知るために知っている人を巡った先に驚愕の真実を知るストーリーである。
人の尊厳人の存在を示す為に本当に必要な事と様々な問題と向き合わなければこのストーリーだけでは片づけられない作品である。
川辺市子とは何者だったのか?というより川辺市子の存在について考えなければならない作品なのだと思う。これはストーリーの中で書いていくけれど、この日本では戸籍に登録が無ければ日本人でも外国人でもない無国籍の人が存在してしまうという現実がある。海外では日本のような戸籍制度はないのだけれど、どうしてそういう事になってしまったのか?どうしてそうしなければならなかったのか?をまず知らなければこの作品を語れないのではないかと感じる。
そして川辺市子はどうして姿を消してしまったのだろうか?レビューしていきたい。
キャスト&ストーリー
結末は劇場で観てほしいけれど、今回のレビューとして川辺市子は恋人の長谷川義則からプロポーズを受けた。その時は嬉しいと涙を流した市子だったが翌日市子は突然行方をくらました。
義則は突然姿を消した市子の事を受け入れられずその理由もわからないまま数週間が過ぎた時にある刑事がやってきて市子について聞かれた中で市子という人物は存在しないという話を受けて衝撃を受けた。
この時点で市子が存在しない人物という話になる事がまず義則も理解できず実際に川辺市子という人物は戸籍上存在しないという事実だけを知る。
その情報を頼りに市子を知る人物を義則は訪ねていく事になる。
ここで明かせるのは川辺市子は無戸籍の子供であるという事だ。日本では出生と共に出生届が出されるのが通常だが、川辺市子の場合は母親が前夫からDVを受けていたために次に付き合った男との間にできた子供を出生届を出すと前夫の子供となる為に出生届を出さなかったという事情だ。
無戸籍になると銀行口座やマイナンバーカード、保険証、そして結婚も就職もできないという殆どできる事が無いという状況だ。今では生まれてからマイナンバーカードがそのまま交付されるという事から次第にマイナンバーカードが身元証明になっていく事になりますが、それでも戸籍制度は日本と中国にしかない制度であり、戸籍がないと日本国籍としても証明するものがないという事です。
当然国民のデーターベースにも存在しない以上は存在自体がない状況と言っても過言じゃないと言えます。
故に市子が風邪をひいても病院にもいかず、結婚しようと言われても突然姿を消したのは市子が無戸籍で結婚する事ができない、保険証が作れないからでもあります。ならどうして市子は学校へ行く事ができていたのか?という事になるのですが、これには特殊な事情が語られるのですが、市子には妹に障害を持った子供月子がいました。
しかし寝たきりの月子は家から出る事もできず、酸素吸引しなければ生き続ける事ができないほどの状況でした。市子は月子として学生時代に通っていたという事が明らかになっていきます。
通常市子と月子は2歳ほど違いますが身長が低ければ仮に2歳上だとしても誤魔化す事が可能と言えば可能ですし、何より月子を誰も見た事が無ければ市子を月子と認識しても不思議はありませんし、学校側も市子の存在は戸籍にはないので月子が市子と知らずに接していたという事になります。
この事情だけでもかなり特殊な事情であり、無戸籍になってしまった理由も理解できる訳ですが、逃げなければならなくなった理由もまた悲しいものでもありました。
その後に起きた出来事については劇場で観てほしい所なのですが事件が起きる前に市子は小学生時代、中学生時代、高校時代と様々な人たちと接しています。
この時は市子ではなく月子という名前で生きていただけに後に市子という名前になっていた事を知らないものすらいました。無理もなく当時は月子と名乗っていたために市子と聞かれてもピンとこなかったのも無理はありませんが、その中のエピソードから同じ学年なのに年上に感じた事や、母親についての事などが聞かされる訳ですが、母親も生きる為にスナックで働き続けたものの次第に生活があれてしまった故に市子とは疎遠になってしまいます。
そして市子は高校の時にある決定的な事件が起きてしまう訳ですが、1つについては月子の件についてはこれはかなり同情の余地があると言ってしまえばそれまでなのですが、もうこのまま月子は生き続ける事は正直困難だったと言わざる得ないのが現実だったと思います。
介護する事の大変さを理解するならばもう市子も母親も限界を超えていたというのが率直な気持ちだったと思います。酸素給油しなければ生きられないほど月子は衰弱していた事からもこれは手をかけるかけないの理由は結果論になりますし、これ以上延命する事についてその是非と尊厳は考えなければならないのではないかと感じます。
本来なら届けなければならなかったのですが、冒頭でも説明している通り市子は月子として学校に行っていた事から表向きは月子として生きる事になりその遺体は10数年間隠ぺいされる事になります。
この状況を考えた時に市子に戸籍があったなら届け出を出せば少なくても家族が罪に問われる事は様々な状況からして罪に問われなかったのではないかとも感じます。
しかし無戸籍の市子が月子として生きる事になった事で市子の人生は大きく暗転していきます。その頃出会ったのが北秀和という高校の同級生が唯一市子の事を知る人物として浮上してくるのですが、それまでに市子を知る吉田キキ、田中宗介、山本さつきと義則は会うものの田中宗介、山本さつきは市子ではなく月子として接しており、吉田キキの時には市子と名乗っていた。
時系列で田中宗介と北秀和は同じ高校で面識がある訳ですが元々は宗介の恋人だった市子は家の事情を話す事すらせず当時入り浸っていた母親の恋人とは対面しているもののそれ以上の事は知らない状況で、吉田キキは高校卒業後に義則が出会う前に共に暮らしていた人物でした。
しかしそこでも市子は突然姿を消している訳ですが、その理由は北秀和が握っていたからにほからないという事です。当時吉田キキとケーキ屋をやるのが夢だったと語っていたのに突然姿を消したのは北秀和が市子を追いかけてきたという理由に他ならなかった。
無戸籍である以上は市子は普通の会社に勤める事は不可能なのでどうしても新聞配達のアルバイトをするしかなく、携帯電話も変える事ができない為に零細企業の新聞配達ぐらいしかやる事ができない中で市子はその後に義則と出会っている。
そして義則は市子の事を知る母親の居場所を掴んである場所に向かうが、果たして市子は何を手にしたかったのだろうか?
結末は劇場で観てほしいけれど、本当に考えさせられる作品でした。市子は普通に生きたかったけれどそういう生き方が許されなかったそれ以上はないという事でもあります。市子の母親がその真実を語った時にこれはどうする事もできなかったという事を感じましたし、無戸籍の人の戸籍を作るって本当に容易な事ではなく支援者の協力があっても困難な事だという事も知るのですが、生まれた証明する書類がなく、身内がいないとなると証明するものすらない。今でこそDNA鑑定で親子証明できる時代にはなったものの、川辺市子は事件の事情からそれもできなくなりもう生きる事そのものが難しくなってしまった事が実に悲しい。
市子はそれでも生きる為にある行動を起こす事になるのだが、現実問題として今のマイナンバー制度により2024年秋に保険証が廃止となる為に市子は市子でない人物としてマイナンバーを取得するという事になっていくようだが、確かにこの方法なら取得できないとは限りませんがかなり危険な賭けです。市子はこの世界で生きる事がどれだけ困難で難しいものなのかをラストシーンでより難しい現実に直面する事になります。
総評として川辺市子をどうしたら救えたのだろうか?というのがこの作品を観終わった後に考えたものです。今は生まれたら即マイナンバー番号が発行される事になっておりいずれ日本では戸籍制度が無くなっていくようになるようですが、日本で戸籍がない人が生きる事がどれだけ困難な事であり、どれだけ生きる為にしなくても良い事をしなければならなかったのかを考えた時にこのような戸籍のない人が発生しない為の制度設計が本当に必要なのだと痛感します。
事件が無かったなら川辺市子を救う事ができたのか?と問われると正直なところ救えたとは言い難い面もあり改めて川辺市子を救えない日本の現実を考えさせられました。