11月10日公開の映画「正欲」を鑑賞した。

この映画は朝井リョウによる長編小説でそれぞれが生きづらさを感じながらも今の世界を生きていく術を見つけていくストーリーである。

それぞれが抱える生活環境、性欲、容姿を見る側がどう捉えるかでこの作品に対する感じ方が違ってくる。



タイトルの正欲はひらがなでせいよくとなる訳だけれどそれぞれの欲の違う人物が登場するこの作品は誰にも言えない問題を抱えながら生きづらさを感じて生きている人の姿を描いている。

人は誰しも何かの欲を抱えて生きている訳だけれど、ここの登場する人たちもまた人に言えない事を抱えて人と違う問題を抱えて生きている。そんな状況でも一歩ずつ前へと歩み出していく中で迎えるラストシーンは物事に常識だけで捉えてはならないという事を痛感させられる事になる。

果たしてこの世界で生きる為にそれぞれが出した結論はいかに?

キャスト&ストーリー



結末は劇場で観てほしいけれど、今回のレビューとしてこのストーリーは登場人物によって境遇が違うだけに3つの軸が最終的に1つに繋がっていく内容となっている。

1つ1つ観ていく事が必要になるだけにそれぞれの状況を見ながらどう感じるかを書いていくのが望ましい。

寺井啓喜

寺井啓喜は検事として日々色々な事件の判例を踏まえながら事件の起訴不起訴を決めていくが、一方で家庭では息子が不登校になりその事となかなか向き合えない自分がいた。

寺井の家庭は自身が検事として仕事をしている上で家庭的な金銭問題は大きな問題ではなく、その息子と妻寺井由美との関係がかなりギクシャクしている中にいる。検事という仕事はどうしても常識力を問われてしまうのでそういう事は有り得ないと考えがちだが、それが故に家庭では有り得ない事に対して葛藤している。

子供がどうして不登校となり、どうしてら良いのかを全て妻由美に任せっきりになってしまっている点からも子供と妻と向き合えているだろうか?というのがある。子供はYouTubeで動画配信してやりたい事を見つけようとやり始めるのだが、YouTubeの場合は目的意識がないとなかなか続かない側面もある。

SNSを始める時に何を目的にやるかというのは意外と重要で連絡手段なら登録だけで時々連絡だけで良いのだけれど、公開して何かを伝えたいとなるとそれぞれ特定のジャンルを決めてやらないと続かないものだ。私自身はブログから自身の伝えるツールをスタートしているけれどやりたい事を予め決めてスタートしているので18年超えても続いている。それがSNSで様々な目的をもってやっているけれど、写真や動画となると趣味の延長線上で参加している事が中心になる。

YouTubeは自身が出演する事はないのでやる意味がなく基本は公開ではブログ、X(旧Twitter)、Instagram、TikTok、Threasdを使い分けている。始めるのは良いのだけれど目的意識を持たないと続かない事は子供には学んだ方が良いかな?

でもそれは全く知らない人が見るというリスクをよく理解しておく必要があるのでそういうリスクマネジメントもやりながらやっていくがそれが次第に家庭崩壊へと繋がっていく。ここで寺井の常識力が家庭崩壊に繋がってしまった事は常識でははかれない事もある事を痛感する。

諸橋大也 神戸八重子

2人はダンスサークルで共通点を持つ事になるんだけれど、諸橋は美男子で準ミスターに選ばれるほど容姿を持つがそれがコンプレックスに感じていた。一方神戸は過去のトラウマから男性と接する事が苦手で普段から男性と接しないように避けてきたが、ある日諸橋と出会った事で勇気を振り絞ってダンスサークルに参加する事を決意する。

しかし諸橋はしばらくしてダンスサークルを辞めてしまいその理由を知ろうと諸橋を追いかけて神戸が諸橋に会いに行くが2人が接点を持とうとするほど2人の距離は離れるばかりだった。神戸の場合男性が苦手だけれど嫌いではない。そんな中で諸橋を見たところから諸橋を追いかける神戸は次第に接近して話そうとするがなかなか話せずようやく話せる機会まで辿り着くのだが、神戸の思いは諸橋に届くのだろうか?というところだが、その諸橋にも誰にも言えない秘密を抱えていた。

桐生夏月 佐々木佳道

この物語の中心となる2人は中学時代から今に至るまで誰にも言えない共通点を持って誰とも接しないように暮らしてきた。桐生夏月は地元広島で契約社員としてほそぼそと暮らしていて気が付けば多くの同級生が結婚していく中で誰とも付き合う事もせず暮らしていた。3人家族で両親からは何時結婚するのか?と時々言われる事に生きづらさを感じながら毎日を過ごしていた。

そんな中で何時もデパートに来るお客の女性から嫌味を言われて生きる事に嫌になっていた時に中学校時代の同級生佐々木佳道が両親が亡くなった事を契機に地元に戻ってきていた。

2人は中学時代にある嗜好が同じ事を互いに理解していたがこの時は両親の都合でそのまま別れる事になったが約20年ぶりに再会する事になるが、最初はお互い距離を取っていた。しかし次第に夏月が佳道に接近してきた事で2人は20年ぶりにあの時の事を思い出してお互いにこの世界で生きる為にどうしたらよいのかを考え始める。

2人とも誰にも理解されないような事を嗜好している為に2人だけが理解し合える事があった。2人には性的な点では全く共通点がないんだけれど、ある嗜好については共通点がありその共通点が2人が共にいられる唯一の事でもあり生きる為の術だったという結論に至る。

特に2人とも人と接したりする事を得意とはせず友達もいない者同士である事からも人と接する事をずっと避けてきた。だからと言って仕事で人と接する事ができないという訳ではなく、普段から同じ時間を共有する人を作らないという事だ。

これは私もわかりますけれどね。私自身もリアルな友達って1人もいませんし、社会人になってから友達なんて誰もいません。私の場合は学生時代にそういう関係に嫌な思いをした事やそういう関係が続いても良い事はないと考えて学生時代の関係はきっぱり断捨離しました。

だから私は学生時代の人が何をしているか何も知らないし、たまたま仕事で関連する時に知る程度ですからね。私の場合は既に四半世紀以上も過ぎている事なので思い出す必要もないけれど学生時代の事って嫌な事は覚えているけれど、そうじゃない事は何も覚えていないものですよ。

両親はまだいるけれど両親が亡くなった後は1人で生きていく事になる訳で夏月と佳道のようにこれ以上生きる意味がないと思えてしまうという事は十分あり得ますね。でも共通点がある人が身近にいたからこそ2人はこの世界でこれからも生き続けようとする術を見つけられた。

そしてそこから3つのストーリーが1つになる訳なのですが、このストーリーの続きは劇場で観てほしいところだけれど、予告映像のあの言葉はどうしてラストシーンに繋がるのか?という部分は全てのストーリーを見て最後を観なければ絶対にわからないし、観たからこそ物事にはあり得ないと考えてはダメなのだという事に辿り着く。

検事の寺井と夏月が偶然出会う事でその先に繋がるラストでは寺井の常識力と夏月の誰にも理解されない嗜好とがぶつかり合う。そこまでに至る経緯は正直なところ完全なる濡れ衣であり冤罪なのだけれど、そういう人と接してしまった為に巻き込まれてしまったというのが正直なところであり、本来なら夏月と佳道の嗜好は2人にだけ理解できれば良い話なのです。

それを理解しようとしてできるか?と問われたら私なら例えを用いれば理解できます。私も数多くの有り得ないような有り得た事を数多く見てきただけに最初から有り得ないとは思わない事が鉄則だと思うし、有り得ないと言いながら実際に起きている事って世の中たくさんあるものです。

ありえないと思ってしまった時点でその人は理解できないという結論に至ってしまうし同じ道を歩めないという事になると思うんですよね。確かにその嗜好を理解する事は場合によっては難しいものではありますが、それを理解しようと向き合わなければ理解し合えないという事でもあります。この作品は共感以上に理解する事と向き合えるか?が問われているのだと感じます。

総評として夏月と佳道はお互いにこの世界で生きる為に共に暮らす事で生きていくとここでは偽装結婚としていますがそれもまた結婚の形だと思いますし、共に暮らす事で子供の有無関係なく家族になった。家族になるには共通点が必要でお互いの相互理解ができたからこそでもある。一方で繋がりたくても繋がれなかった諸橋と神戸のように叶わなかったケースもある。そして寺井のように自分の常識の殻から抜け出せずに家族を失ったケースも描かれた。

全て有り得ないようで有り得た話であり、その有り得ないと片付けてしまう時点で終わってしまうのだと感じる。この世界で起きている事は有り得ないと思わず有り得ると考えるところから理解は始まるのだと思うし、夏月と佳道の嗜好は正しい欲である事を感じる事ができると思います。





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