9月11日公開の映画「窮鼠はチーズの夢を見る」を観賞した。
この作品は水城せとなによる漫画を実写化した作品で、不倫をしていた大学時代の先輩と7年ぶりの再会をした後輩が突然好きですと告白してから始まる2年間に及ぶ関係を描いたストーリーである。
異性愛者と同性愛者が結ばれていくという異色のストーリーの結末はいかに?
異性愛者が同性愛者から好きと告白されてから始まった2年に及ぶ関係を描いているけれど、今は同性愛者に対する偏見を昔よりは少なくなっているとは言えなかなかこの関係を理解する事って難しいものだ。
ただこれを異性、同性という概念を取り払った場合に考えていくと人間として愛する愛さないという側面で考えれば割とスムーズに考えられるとは感じている。同性でも好き嫌いはある訳だし、異性でも好き嫌いがある。そこに愛する愛さないがある訳だからそういう感覚で観ていくと意外とすんなり理解できるのかもしれないとは思います。
そんな2人が2年に及ぶ関係を経て辿り着いた答えとは?
キャスト&ストーリー
結末は劇場で観てほしいけれど、今回のレビューとして学生時代から受け身の恋愛を繰り返してきた大伴恭一には大伴知佳子という妻がいた。しかし妻がいながら不倫を繰り返している恭一はある日7年ぶりに大学の後輩である今ヶ瀬渉と再会する。
その再会劇が浮気調査というこれまた皮肉な形で再会するのだが、この再会がこれまで7年間言えなかった渉が恭一への思いを打ち明けるキッカケになる。「昔からずっと好きだった。」と言われた恭一は当然最初は戸惑うが、妻との離婚をキッカケに恭一は渉との関係にハマっていく事になる。
最初は恭一も何言っているんだ?という気持ちだったと思うんです。でも次第に渉の気持ちを理解し始めた恭一も同性愛者の渉に対して異性愛者の恭一が理解を示していった事により次第に惹かれていく。
問題はこれをどう客観的に観ていくのか?という部分ですが、男女間は通常性交渉を前提にしているのは言うまでのないけれど、同性間も同じ事を前提にしている。これは人間として生まれた以上避けて通れない道なのだとは思いますけれど、通常これが理解できないのは男女では体のつくりは当然違う訳ですが、それでも同性でどうしてそれが可能なのか?という頭で理解しようとする事で拒否反応を示し、それが偏見に繋がってしまうという流れになる。
でもよく考えて見れば同じ人間であり、それがたまたま相手が同性だったというだけで体を触れ合うという点においては実は何も変わらない。それを相互理解できるかできないかなのだという事です。
確かに第3者から見てしまうとどうしてもこの愛は異常に見えてしまうけれど、2人の間ではこれは異常ではない訳で、それを理解できるだけの器量があるかないかというだけなのだという事です。
2年の間に当然大学時代に付き合った女性が恭一に忠告してきたりして実際に同僚だった女性と同棲するのですが、これは恭一の気持ちに渉が入っている中では誰も入り込めないという事を知っていく。
果たして2人の関係はどうなっていくのだろうか?
結末は劇場で観てほしいけれど、恭一は受け身の恋愛を繰り返した事で本当に好きなのは誰なのか?以上に誰を愛せるのか?というのが1番のポイントだったのだと思う。好きでも愛しているでもない状況を繰り返してしまうと本当の愛に辿り着かない。
その中で7年ぶりに出会った渉に告白された事により恭一は本当に好きという意味、本当に愛するという意味を知っていくというのがこの2年間なのだと感じた。渉との関係が良くないとわかりながらも心の底では渉の事が好きで好きで愛している自分がいる事に対する葛藤は大学時代に付き合った元カノ、そして同僚の女性と接していく中で本当の気持ちに苦しみ隠せない自分に気づいていく。
そして出した答えは再婚まで決めた女性とも別れて1人になるという結論だった。確かにその方が誰も傷つかないという結論なのだろうけれど、この結論が良いのか悪いのか?と問われてしまうととても難しく本当の気持ちに向き合う葛藤が最後まで続いていくのだと感じるのだった。
総評として突然の告白から始まった心の底に眠っていた気持ちが次第に隠せなくなっていく恭一の姿が描かれていくけれど、誰も本当の気持ちを直接言い出せる人って今の世の中にはあまり少ないものだ。それを言い出す位の気持ちになるには崖から飛び降りるほどの気持ちにならなければいけないのだと感じる。
異性、同性というくぐりで見てしまうと本当に向ける視点を見失うが、本当に向けるべきは自分の本当の気持ちは何処にあるのか?という部分なのだと感じる。
この作品は水城せとなによる漫画を実写化した作品で、不倫をしていた大学時代の先輩と7年ぶりの再会をした後輩が突然好きですと告白してから始まる2年間に及ぶ関係を描いたストーリーである。
異性愛者と同性愛者が結ばれていくという異色のストーリーの結末はいかに?
異性愛者が同性愛者から好きと告白されてから始まった2年に及ぶ関係を描いているけれど、今は同性愛者に対する偏見を昔よりは少なくなっているとは言えなかなかこの関係を理解する事って難しいものだ。
ただこれを異性、同性という概念を取り払った場合に考えていくと人間として愛する愛さないという側面で考えれば割とスムーズに考えられるとは感じている。同性でも好き嫌いはある訳だし、異性でも好き嫌いがある。そこに愛する愛さないがある訳だからそういう感覚で観ていくと意外とすんなり理解できるのかもしれないとは思います。
そんな2人が2年に及ぶ関係を経て辿り着いた答えとは?
キャスト&ストーリー
結末は劇場で観てほしいけれど、今回のレビューとして学生時代から受け身の恋愛を繰り返してきた大伴恭一には大伴知佳子という妻がいた。しかし妻がいながら不倫を繰り返している恭一はある日7年ぶりに大学の後輩である今ヶ瀬渉と再会する。
その再会劇が浮気調査というこれまた皮肉な形で再会するのだが、この再会がこれまで7年間言えなかった渉が恭一への思いを打ち明けるキッカケになる。「昔からずっと好きだった。」と言われた恭一は当然最初は戸惑うが、妻との離婚をキッカケに恭一は渉との関係にハマっていく事になる。
最初は恭一も何言っているんだ?という気持ちだったと思うんです。でも次第に渉の気持ちを理解し始めた恭一も同性愛者の渉に対して異性愛者の恭一が理解を示していった事により次第に惹かれていく。
問題はこれをどう客観的に観ていくのか?という部分ですが、男女間は通常性交渉を前提にしているのは言うまでのないけれど、同性間も同じ事を前提にしている。これは人間として生まれた以上避けて通れない道なのだとは思いますけれど、通常これが理解できないのは男女では体のつくりは当然違う訳ですが、それでも同性でどうしてそれが可能なのか?という頭で理解しようとする事で拒否反応を示し、それが偏見に繋がってしまうという流れになる。
でもよく考えて見れば同じ人間であり、それがたまたま相手が同性だったというだけで体を触れ合うという点においては実は何も変わらない。それを相互理解できるかできないかなのだという事です。
確かに第3者から見てしまうとどうしてもこの愛は異常に見えてしまうけれど、2人の間ではこれは異常ではない訳で、それを理解できるだけの器量があるかないかというだけなのだという事です。
2年の間に当然大学時代に付き合った女性が恭一に忠告してきたりして実際に同僚だった女性と同棲するのですが、これは恭一の気持ちに渉が入っている中では誰も入り込めないという事を知っていく。
果たして2人の関係はどうなっていくのだろうか?
結末は劇場で観てほしいけれど、恭一は受け身の恋愛を繰り返した事で本当に好きなのは誰なのか?以上に誰を愛せるのか?というのが1番のポイントだったのだと思う。好きでも愛しているでもない状況を繰り返してしまうと本当の愛に辿り着かない。
その中で7年ぶりに出会った渉に告白された事により恭一は本当に好きという意味、本当に愛するという意味を知っていくというのがこの2年間なのだと感じた。渉との関係が良くないとわかりながらも心の底では渉の事が好きで好きで愛している自分がいる事に対する葛藤は大学時代に付き合った元カノ、そして同僚の女性と接していく中で本当の気持ちに苦しみ隠せない自分に気づいていく。
そして出した答えは再婚まで決めた女性とも別れて1人になるという結論だった。確かにその方が誰も傷つかないという結論なのだろうけれど、この結論が良いのか悪いのか?と問われてしまうととても難しく本当の気持ちに向き合う葛藤が最後まで続いていくのだと感じるのだった。
総評として突然の告白から始まった心の底に眠っていた気持ちが次第に隠せなくなっていく恭一の姿が描かれていくけれど、誰も本当の気持ちを直接言い出せる人って今の世の中にはあまり少ないものだ。それを言い出す位の気持ちになるには崖から飛び降りるほどの気持ちにならなければいけないのだと感じる。
異性、同性というくぐりで見てしまうと本当に向ける視点を見失うが、本当に向けるべきは自分の本当の気持ちは何処にあるのか?という部分なのだと感じる。
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