5月31日に発売されたサッカーJ1アルビレックス新潟所属の

田中達也選手の「特別な時間」〜すべてはサッカーのために〜を購入しました。

この書籍はプロサッカー選手である田中達也選手が

高校時代からサッカーJ1浦和レッズへ入団しその後の怪我との戦いや活躍、

そして今在籍するサッカーJ1アルビレックス新潟での事を綴った著書となっています。

サッカー選手として必要な事、そして怪我と向き合った時間、

浦和レッズを戦力外となりアルビレックス新潟へ移籍してきた時間を辿る事で

田中達也選手の事を色々知る事ができる1冊となっています。
通算5冊目となる書籍レビューとなりますが、

今回はこれまでイベントや試合であった事のある選手をレビューするのは

実はこれが初めてになります。

1度イベントで直接握手した経験があるのですが

直接お会いした人の事を書くケースは実は本当に少ないんですよね。

実際に直接有名人にお会いした経験(握手会とかじゃないですよ)がありますけれど、

それだけでも非常に貴重な経験談となる訳です。

でもその分お会いするだけで逆に描きにくくなったりするケースもあったりします。

でも読んだ以上レビューするのが私の生きた証を残す意味もある訳ですし、

私の考えを残す事になる訳ですので綴っていきたいと思います。

まず私は田中達也選手についてはアテネ五輪時代や浦和時代、

代表での活躍など比較的代表時代の印象が強かったりします。

とにかくドリブルが上手い!持たせたら何かが起きる!と思わせてくれる選手です。

ただ長年怪我と戦い続けてきたという印象もあり、

これから何年プレーできるのだろうかと感じた事もあったのも事実です。

浦和レッズを戦力外になった時に新潟にこういうドリブルで局面を打開できて、

様々な経験ある選手が加入してくれたら若い選手の多いチームにとって

戦力だけでなく大きな経験を伝えられると思って来てくれたらと思っていました。

浦和サポーターと交流があるのでうちに来てくれればと話していた事もありましたが、

新潟ではないと感じていたようで多くの人が新潟に移籍するとは思わなかったようです。

私自身も新潟に代表経験者となるとかつては山口素弘選手が

1番インパクトある加入でしたが、それ以来A代表経験ある選手の加入はなかった位です。

そんな新潟を選んでくれた事に本当に感謝したものでした。

今季で加入4年目となりますが、新潟に来てから怪我は時々ありますが、

大きな怪我はなくプレーし今季はコンスタンスに出場し、2列目として新境地を開いています。

サッカーをする環境としては実に良い選択肢をしたと思うし、

新潟に来た事で選手寿命が延びたように感じています。

そんな中で著書を1つ1つレビューしていきます。

第1章ひたすら武器を磨く

主に高校時代の事が書かれていますが、

田中達也選手は高校は帝京高校でプレーしました。

帝京高校位になるととにかく部員が100名を超える訳で、

100人の競争からトップのレギュラーを獲らなければなりません。

今はプレミアリーグ、プリンスリーグ、地域リーグとカテゴリーに分かれて試合があり、

試合数が多いためにBチームでリーグ選手に出場したり、

Aチームは別の大会に出場するというケースが多くなりましたが、

それでも出れる選手は限られる訳です。

特に田中達也選手は身長が低いので普通のプレーでは目立ちません。

故に徹底的にドリブルの練習に明け暮れた高校1年だったそうです。

そんな田中達也選手もある夏の合宿でチャンスを掴み

1年生でトップチーム入りを果たして次第に中心選手になっていく過程が語られています。

その中では決勝で勝てなかった挫折も味わっている訳で、

田中達也選手の原点は高校時代に徹底的にドリブルを磨いた事で

プロで生きる道を切り開いたのでした。

ドリブルの代名詞も高校時代にひたすら練習したからこそ身についた技術であり、

ドリブルがあるからこそプロとして生きていけるだけの強さがあるのだと思いますし、

何よりそれだけ日々の積み重ねが今にあるというのを

改めて田中達也選手は努力の選手なのだと思います。

しかし高校時代に足首を負傷して手術している経験もあり、

田中達也選手は高校時代から怪我との闘いの連続の始まりでもあった。

どうしても体格の小さい選手なのでフィジカル面でどうして厳しい部分はある。

特に高校時代は体が完全に出来上がっていないので、

1度負傷すると簡単に回復できるほどの設備が整っている訳でもない。

この点は高校とユースの違いでもあるけれど、

クラブ規模で医療体制が違うだけに怪我と向き合う姿も語られている。

第2章なんのためのドリブルなのか

田中達也選手が浦和レッズに入団した当初の事が語られているけれど、

今でも凄いけれど、当時の浦和レッズの選手たちは

とにかく小野伸二や岡野、福田と本当にいい選手が多く在籍していた。

しかしそんなチームでもJ2降格を経験して今がある。

田中達也選手が入団したのは浦和がJ1に復帰した年だけれど、

浦和もまだ復帰して再スタートのシーズンでもあった。

まだこの頃の浦和は強豪とは呼ばれず下位に低迷するチームと言われていた時代だ。

今でこそ浦和の強さが目立つけれど、

開幕当初の浦和は本当に下位に低迷するチームだった。

本当に勝てない試合ばかりだった訳でこの頃を知る人たちは

浦和の今があるのはこの時代があるからだと知ると思う。

入団当初はドリブルばかりしていたという事が書かれていましたが、

逆にそうでないと浦和に残れないという思いが強かったのだと思います。

でも当然ドリブルだけではプロではダメな訳で、

2003年に監督に就任したハンス・オフト監督に

ドリブルからシュートで得点を狙えという教えを受けた事で

田中達也選手の才能が開花していく事になっていきます。

それが2003年に浦和が初のタイトルとなった

ナビスコ杯優勝という印象的なゴールが1ページとなっています。

そしてこの頃はアテネ五輪の予選を並行して戦っていた時代でもあり、

アテネ五輪予選についても語られています。

この時代の田中達也選手はエメルソンの加入で

凄い選手のプレーを真横で観ながらプレーしていた事で

多くの刺激を得ていた時代でもありました。

ドリブルシュートの代名詞と言える田中達也選手の姿は

この頃にはプロとして大きなターニングポイントだったと思います。

第3章駆け上がり、前を見る

ここでは2004シーズンとアテネ五輪について触れています。

新潟が丁度J1昇格1年目のシーズンを戦った時代ですけれど、

この時代の浦和はとにかくブッフバルド監督が就任し、

闘莉王、三都主らが加入して優勝候補に出るほどレベルアップしたシーズンでした。

実際に私も当時ビックスワンで浦和戦を観戦しましたけれど

エメルソンのレベルの違い、さらに浦和サポーターの凄さを

初めて生で体験した時でもありました。

本当に凄いサポーターだな・・・

ともちろんチームもこの時代から浦和の1番強い時代が訪れたといっても良いでしょうね。

ブッフバルド政権時代の浦和は本当に強かった。

エメルソン、ワシントン、ポンテとワールドクラスの選手が在籍し格の違いを

見せつけられた時代でもあった。

それに闘莉王、坪井、長谷部、田中達也とこんな選手たちと戦う方が

挑戦者であった時代でした。

もちろん今でも圧倒的に強いことに変わりないのですが、

ずば抜けた外国人選手不在という点はさすがに違う点ではある。

この時代の田中達也選手はアテネ五輪予選を戦っていた。

1度は大きな敗戦も経験しながら最後の最後で予選突破を決めて

アテネ五輪出場を決めた訳だけれど、

当時大久保が救世主のような活躍で勝ち上がった予選でもあったし、

何より達也の活躍なしでは語れない予選でもあった。

その直後のリーグ戦では再び怪我に見舞われてしまいメンバー入りが危ぶまれる。

しかし田中達也選手はメンバー入りを果たしてアテネ五輪本番では

サブとして3試合に出場したが、世界の壁は厚く1勝2敗でグループリーグ敗退となった。

さすがにパラグアイ、イタリアと当たったのは厳しかったけれど、

パラグアイとは3対4と打ち合い、イタリアも2対3と打ち合った。

この経験が後々大きな経験となっていった訳で

その後浦和で2ndステージ優勝を経験する事になる。

翌年は田中達也選手はA代表に呼ばれる事が増えて代表とチームを掛け持つ事になる。

当初は順調に試合を重ねていたけれど、

田中達也選手にとって2005シーズンに悪夢の大怪我をしてしまった。

選手生命を左右する大怪我に田中達也選手にとっての

ドイツW杯の舞台はこの大怪我で消えてしまったのだった。

脱臼ははめるまで相当な激痛が走ると言われるほど痛い怪我という。

これは経験者じゃないと語れない怪我なので

私も靭帯損傷で3か月のリハビリ経験はありますが、

それ以上の痛みである事は間違いないとは言える。

ここからプロで怪我との闘いが続いていく事になる。

第4章すべてを受け入れる

田中達也選手にとって大きな怪我からのリハビリの日々が語られている。

その前に大怪我となったプレーで接触した土屋征夫選手の事が触れられている。

多くのプレーは不慮な事故で起きる事が殆どだ。

どうしても止めようとするプレーで結果大けがになってしまったシーンは少なくない。

それでもそのプレーのせいにしないのは田中達也選手の素晴らしいところである。

怪我をさせるためにプレーする訳じゃないから

これはある意味仕方ない側面があるという事でもある。

そんな田中達也選手も2006シーズンは怪我から復帰して

浦和初のリーグ優勝に貢献する事になる。

この時代の浦和は本当に強く選手層も厚かった。

しかしこの頃の田中達也選手は毎年リハビリの毎日を送る事になる。

この頃から毎シーズンリハビリしているイメージが強かったのを思い出すけれど、

それだけ怪我の回復が長引いてしまい、

さらには復帰してもすぐに怪我をしてしまうという繰り返しを送る事になる。

これだけ怪我が多いと選手としてくじけそうになるが、

ここで田中達也選手はくじけず色々な経験としてリハビリを行っていく。

まあこれだけ故障すれば無理もないが、

年間リーグ戦のうち半分も試合に出場できていないシーズンが

非常に多かったのも事実である。

08年15試合、09年19試合、10年12試合、11年12試合と

このベンチ外の試合数からしても本当に怪我との闘いの日々だったのだと思う。

出場停止で1,2試合はあるけれど、

これだけの試合数がリハビリ期間だったという事でもある。

この間に浦和は監督が代行含めて計5人代わっている。

ある意味浦和の迷走時代と言える時代ではあるんだけれど、

それだけ難しいかじ取りを強いられた時代でもある。

その中で田中達也選手は怪我との闘いの日々があった訳である。

これだけ怪我が続くと自分のベストな状態は何なのかが

正直解らなくなった時もあると思います。

それでも挫けずに試合に出場するためにリハビリを続けてきた。

その大怪我が少なくなった2012シーズンに大きな岐路を迎える。

このシーズンから浦和はミハイロ・ペドロヴィッチ監督が就任し

1トップ2シャドーのシステムとなった。

田中達也選手にとって1トップ2シャドーは入るポジションがないと

言えるほどシステムに合わないものだった。

起用するとしても2シャドーのポジション以外になかった訳だけれど、

この時代の2シャドーはマルシオと柏木だった訳で

達也が入り込む余地はどこにも残されていなかった。

元々2トップの一角、Wとしてプレーした田中達也選手にとっては

ミシャのシステムで生き残る事は難しいものだったといえる。

サッカー選手にとってシステムに適さない監督に出会ってしまうと

構想から外れる事は珍しい事ではない。

田中達也選手にとってミシャのシステムがまさに適さなかったと言える。

この年で浦和レッズの契約満了が発表された。

田中達也選手にとって次の移籍先を探し易くするための

浦和の配慮もあったんだけれど、

プロ選手にとって契約満了で移籍先を探さなければならないというのは

本当に厳しい事であり、田中達也選手のように怪我が多い選手ほど難しい。

仮に獲得するとしてもスーパーサブになる可能性が高い訳でもあり、

この時点でどのチームが獲得するのか正直解らなかった。

ただ私自身は例えスーパーサブでもこれだけの経験ある選手がいないチームにとって

田中達也選手は絶対に必要だと感じていた。

これは新潟に移籍してきた時のチーム状況を踏まえて触れたいと思います。

それだけ田中達也選手は怪我との現実、

戦力外になった現実を受け止めてきたという事を感じます。

第5章家族

田中達也選手は20歳で結婚しているのでかなり早い結婚ではある。

とはいえスポーツ選手にとって早い結婚は悪くないだけに

田中達也選手も早い結婚によって家族の支えがあったから

今までプレーしてくることができたと感じる内容となっています。

田中達也選手はプロに入団して以来ずっと浦和でプレーして

長年関東に暮らしていたから雪国である新潟で暮らすのは

かなり環境の違いはあったと思います。

山口と関東、そして新潟では全然環境や気候が違いますからね。

その意味で田中達也選手が浦和を契約満了となったあと

新潟移籍が決まって家族も一緒に新潟で暮らし始めてもう4年目となる訳です。

新潟はJ1では資金力は浦和の半分も満たないチームですが

サッカーをする環境は確り整っているクラブでもあります。

関東と違い色々な誘惑も少なく、その割に色々揃っているのが新潟だったりします。

田中達也選手も娘さんをサッカーチームに入れたそうですが、

J1昇格当初のチームだったらそれは難しかったかもしれません。

そういう意味で田中達也選手にとって新潟の移籍は

家族にとっても色々とプラスになった移籍だと感じています。

そしてこの著書の中ではとにかく父親として厳しい姿が描かれていますが、

私として非常に子供と向き合うのにいい向き合い方だと感じていますし、

子供を信じて子供がやりたい事はとことんやらせる

という姿は父親として素晴らしい姿だと思います。

第6章リスタート

田中達也選手が新潟で再スタートを切るところから書かれているのですが、

田中達也選手にとっては新潟の移籍が初めての移籍になった訳です。

サッカー選手の場合同じチームで追われる選手は本当に一握りしかいません。

多くの選手は契約満了により移籍するか、

移籍を繰り返して最後は古巣のチームに戻ってプレーして引退するかです。

田中達也選手は移籍前浦和で幾度も怪我で離脱して

思うようにプレーできなかったという経緯がありました。

多くのクラブはいい選手なんだけれど怪我が多いのが

ネックだという見方をしていたのかもしれません。

私も田中達也選手の獲得を熱望した1人でしたが、

クラブとして浦和時代の年俸は無理でも

3000万台なら(実際にどれぐらいの年俸かわかりませんが)移籍金がないだけに

獲得できると個人的には思っていましたが、

何より1番重視したのは当時新潟には優勝経験や代表経験のあるFWが不在でした。

矢野貴章も代表経験はありましたが、

ドイツへ行ってから全盛期のプレーが見れなくなってしまった経緯があり

契約更新されませんでした。

仮にスーパーサブでも田中達也選手の姿が若手の手本になると

チームに多くの影響を与えてくれる選手という気持ちでいました。

何よりこれまでずっと浦和しか経験してこなかった事で

浦和以外のチーム方針そしてこれは意外でしたが

田中達也選手にとって当時の指揮官柳下監督が初めての日本人監督だったという事で

コミュニケーションがとりやすくなった事も大きかったようです。

そして何より新潟はメディカルチェックからどこを鍛えるべきなのか

という部分でこれまで浦和で経験してこなかった部分もチェックした事で

体のバランスを見直す機会になった事も

田中達也選手にとって選手寿命を延ばす事になったと思います。

初めての移籍でこれまで接した事のない選手も多かった訳ですし、

何より新潟の選手にとってはあの有名な田中達也選手が目の前にいるという事が

何より大きかったのですが、

その橋渡し役になったのが当時期限付きで同じ浦和からやってきた濱田水輝選手でした。

濱田水輝選手は五輪予選では前年まで在籍した

鈴木大輔選手とコンビを組んでロンドン五輪出場に貢献した選手で

本戦には惜しくも選ばれなかったものの

新潟の選手については大輔や高徳から色々聞いていたと思いますし、

何より同じチームメイトだったという事で打ち解けるのに

時間がかからなかった事も大きいと思います。

同じ移籍してきた成岡翔選手らU世代で一緒だった選手がいた事も

田中達也選手にとって大きかったと思います。

その田中達也選手は2013シーズンは自己最高となる

リーグ戦シーズン32試合に出場と逆に私もここまで出場できるとは予想以上だったので

当初は90分間出場できない事にチーム力がダウンするとも考えた時期もありましたが、

途中から達也タイム(私は達也が先発出場する試合をそう呼んでいる)の後に

控え選手を使う事でチーム力が上がると前向きに考えるようになっていた。

これまで怪我の多かった田中達也選手にとって

無理に90分間出場するよりも毎試合先発出場し65分間プレーした方が

チームにとってプラスになると考えるようになったし、

何よりこのシーズンの田中達也選手は川又堅碁選手が

大ブレイクした年であり田中達也選手が周りを活かすからこそ

チームは機能すると個人としては確かに2ゴールだけでしたが

2ゴール以上の貢献をしてくれました。

翌年、翌々年と若干の怪我や競争もあり出場試合数は少なくなったりしましたが、

それでも腐る事なく黙々と練習する姿は

若い選手が多い新潟にとって本当に手本になっています。

これは当然のようで実は難しいのですが

出場機会の少ない選手がモチベーションを維持し続けるのはとても難しい事です。

しかしそういう選手がいなければチームとして機能しない事もある訳で、

田中達也選手は浦和時代に出場できない経験をしてきたからこそ

普段の練習が大事なのだと生きた手本として見せてくれています。

もちろん練習以外の場面でも色々面倒見が良い選手であり、

新潟の選手も多くの選手が田中達也選手の自宅で

世話になっている事が記載されています。

田中達也選手も将来の指導者として

C級ライセンス(現役時代にB,C級ライセンスを取得できる制度があるようです)

を取得しており

後々指導者として必要な道を新潟で歩んでもいます。

この章で1番印象的なのは新潟在籍の選手、そして在籍した選手、

そして神田強化部長それぞれのコメントですね。

ここはかなり読み応えがあります。

今チームは苦しい時ですが、ここで語られている事を

是非今答えを見つけられない人たちに読んでほしい部分です。

それだけ田中達也選手の存在の大きさがわかります。

第7章特別な時間

この章はこれまで、そしてこれからが綴られています。

田中達也選手もいずれは引退の時を迎える訳ではありますが、

私自身は田中達也選手にはここで引退してほしいと思いますし、

引退後もしばらくは新潟で指導者をしてほしいと思います。

内田潤スクールコーチも新潟で引退を決めてもう3年コーチ生活を送っていますが、

こういう新潟にいい影響を残した選手が

新潟に残って子供たちを指導する姿は子供たちにとって大きな財産になります。

もちろんトップコーチとして入閣する事も悪い事ではありませんが、

個人的にはジュニアユースの監督やコーチから初めて

段階的にユースのコーチそしてトップのコーチになっていけば良いと思います。

新潟の場合コーチ業を始めやすいクラブです。

かつて森保一現広島監督も新潟でヘッドコーチを経験して監督になられました。

チームによっては引退即コーチ就任するケースもありますが、

それは浦和のようなビッククラブだとなかなか難しいと思います。

いずれは浦和の監督をやるかもしれません。

でもその前に新潟で指導経験を積んでほしいと私は個人的な考えで思っています。

とは言ってもしばらく引退する事はないと思います。

今季はこれまでのFWではなく左SHのMFとして出場して事により

田中達也選手の引き出しが広がったと思いますし、

選手として幅が広がったと思います。

なかなか連戦で起用するのは難しいですが、

そこは若手と併用しながら起用する事でチームにとってもいい刺激になると思いますし、

何より田中達也選手にとっても若い選手とプレーする事で

いつも刺激を受けながら練習に励めると思います。

以上のレビューとなりますけれど、

私自身は田中達也選手にいつか来る日には本当にありがとうと言いたいと思いますし、

その日はずっと先にしてほしいと思います。

この著書を読んでいると娘さんがアカデミーでプレーして

代表になるまではここにいると感じます。

そして何より田中達也選手のプレーを身近で観て育った選手が

次々と昇格してくる姿も観れると思うと

田中達也選手が新潟に来てくれた事が

いかに大きな事なのかと改めて感じさせてくれる1冊です。

私自身も著書で書いてある通り気持ちを出してプレーする選手が好きですし、

そういう選手に自然と力が入ってしまいます。

上手いだけじゃない気持ちが必要だという事を教えてくれる選手です。

まだまだ現役として新潟のためにプレーし続けてほしいと思います。

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