2015年3月11日14時46分東日本大震災から4年の月日が流れました。

もう4年、まだ4年と感じ方は人それぞれだと思いますが、

個人的には4年経ても戻れない人たちも多くわずかしか進んでいないと感じております。

この4年で何を決断しなければならないのか?

そして何を進めなければならないのか?

を考えなければならないのかもしれません。
あの日から4年という年月は色々な事を変えてしまったけれど、

4年経ても状況が良くなった訳ではなく、

むしろ4年経て間違った決断をしてしまった事による

収拾のつかない事も多くなったように感じます。

まず今現在も福島第一原発事故により福島県外に避難している方が

非常に多いという現実は絶対に無視できません。

津波によって家を失った人たちは自然の驚異によって無力のま

ま見つめるしかなかったと割り切れる部分はあると思いますが、

原発事故については完全なる人災と結論が出た中で

来年で支援を打ち切るというような方針も示されている現状に

完全に原発事故によって土地も故郷も失った人たちに対する対応を

間違ったという結論に達しようとしているのが現実です。

事故当時人類には当時25年前に起きたチェルノブイリ原発事故の前例があり、

その前例の中で根拠のない戻れる発言をした時点で

住民は諦める事ができなくなってしまった人が多くなったのは事実であり、

逆に無駄に近い帰還活動を行っている現実を目にすると

本当にすべきことは別にあったと感じる次第です。

起きてしまった事は取り戻せない事もあるというのは少なくありませんが、

チェルノブイリの25年後に答えがある今帰還を目指すのではなく

住民の集団移住という舵を切る事ができたなら

もっと違う方向で物事が進んだと感じます。

既に福島県の浜通り、中通りが放射線管理区域となっており、

本来放射線管理区域に住む事はどれだけのリスクがあるのかは

数多く説明がなされている以上郡山市、福島市から

避難している人も多い事でわかりますが、

少なくても福島原発事故周辺の市町村を集団移住させる方針を示すべきだった。

今の日本はそうでなくても過疎化で農業や漁協など人手不足に悩む自治体も多く、

受け皿として募れば手を上げた自治体も少なくなかったと思います。

そうすれば浜通り全てを国有化し

大量に行き場のない放射線廃棄物の中間仮置場としてスムーズに事が進んだし、

周辺のの整備は最小限に抑える事も可能だった。

そうでなくてもいくらかかるかもわからない莫大な廃炉費用もある中で

必要以上の費用を使わずに済んだ訳です。

もちろん移住する人たちの雇用なども斡旋しなければならないし、

住居も提供するという問題はあったにせよ帰還を目指すという根拠のない

無理難題を言った事で事を難しくしてしまったと思います。

ただそう言えば当時の総理大臣は全ての責任を被る事になりましたが、

その勇気すらない総理大臣だったという事です。

そうなってしまった今では帰還できないと発言を変える事は難しい訳ですが、

ただもう4年も経過した以上は戻る事を断念し

ある程度集団で移住してもらうプランを出す時だと思います。

原発事故以外の地域の宮城、岩手もまた津波の爪あとが残ったままです。

少なくても港近くに住宅を建てるのは困難でしょうから

住宅と仕事場は離れる事になりますが、

まだ纏まり切らないという自治体もあるのでこちらの再建もまだ時間が必要です。

4年という月日を経てもまだ復興は程遠いと思い知らされますが、

それでも一歩一歩前へ進まなければならない。

あの日を忘れない。

その気持ちだけは毎年この日になって思い出す日にしたいものです。

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東日本大震災 被災と復興と
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