1月12日公開の映画「映画 鈴木先生」を鑑賞した。
この映画は2011年4月期にテレビ東京系で放送された
鈴木先生を映画化した作品で身近に起きる生徒の問題に
真剣に取り組む鈴木先生が独自の教育論で生徒たちを指導するも、
その中で事件が起こり生徒を守るために体を張って教育論を展開して行くストーリーである。
連続ドラマ史上歴代ワースト2を記録した作品ではあるが、
完成度が高く異例の映画化となり、
連続ドラマを知らない人でも十分に問題と向き合い、
そして今の現代の問題点を14歳の生徒たちが
真剣に取り組む姿勢に心を打たれる事だろう。
この映画は2011年4月期にテレビ東京系で放送された
鈴木先生を映画化した作品で身近に起きる生徒の問題に
真剣に取り組む鈴木先生が独自の教育論で生徒たちを指導するも、
その中で事件が起こり生徒を守るために体を張って教育論を展開して行くストーリーである。
連続ドラマ史上歴代ワースト2を記録した作品ではあるが、
完成度が高く異例の映画化となり、
連続ドラマを知らない人でも十分に問題と向き合い、
そして今の現代の問題点を14歳の生徒たちが
真剣に取り組む姿勢に心を打たれる事だろう。
視聴率こそ最低を記録したが内容は最高というドラマの評判は
以前からドラマブロガーの間で知っていたんだけれど、
私の住む地域ではリアルタイムでは視聴できず、
放送されても深夜1時だった事もあり観る事はなかった。
ゆえに映画のみの率直な鈴木先生に対するレビューとなる訳だが、
実に色々と考えさせられる問題が多い作品である事は言えるし、
大人でも答えを導き出す事が難しい問題について果たして
私自身どう答えを述べる事ができるのかレビューしながら考えていきたいし、
本当に教育としてあるべき姿とは何なのかを考えてレビューしたい。
キャスト
鈴木章演じる長谷川博己
鈴木麻美演じる臼田あさ美
山崎潔史演じる山口智充
桃井里香演じる田畑智子
江本源三演じる赤堀雅秋
岡田征志演じる山中聡
川野達郎演じるでんでん
小川蘇美演じる土屋太鳳
中村加奈演じる未来穂香
出水正演じる北村匠海
神田マリ演じる工藤綾乃
平良美祝演じる刈谷友衣子
勝野ユウジ演じる風間俊介
田辺満演じる浜野謙太
白井演じる窪田正孝
続木護演じる 夕輝壽太
足子瞳演じる富田靖子
五井正子演じる歌川椎子
伊福部直孝演じる斉木しげる
他多数のキャストでストーリーが進行する。
ストーリー
一見普通に見える生徒達ほど、心の中には鬱屈したものを抱えていると感じている、
黒縁メガネとループタイがトレードマークの悩める国語教師・鈴木先生。
教育現場の常識を打ち破り、独自の<鈴木式教育メソッド>を駆使して、
理想のクラスを作り上げようと奮闘しているが、
妊娠中の妻・麻美がいるにも関わらず、
自身の“実験教室”に不可欠な“スペシャルファクター”となる
女子生徒・小川蘇美を重要視するうちに、良からぬ妄想をすることもしばしば。
やがて、二学期が始まり、生徒会選挙と文化祭の準備に追われるなか、
教育方針の対立により“壊れてしまった”天敵の家庭科教師・足子先生が、休養から復活。
さらに、ドロップアウトしてしまった卒業生・勝野ユウジが学校に立てこもり、
小川が人質に取られるという史上最悪の事件が発生。
どうする、鈴木先生!?
以上映画 鈴木先生HPより
結末は劇場で観てほしいけれど、
今回のレビューとして、2時間15分の作品として
これだけ色々な問題を考えさせられる作品も珍しい位考えさせられた。
まず鈴木先生からだけれど、
鈴木先生は何処にでもいる平凡な教師ではあるが
エリートの道を歩んだ訳ではなくそれゆえ独自の教育論を持っている。
鈴木先生の場合個性ある生徒よりも真面目で普通の生徒に目を掛けるというものだ。
このストーリーでは重要なカギを握るのだが、
普通っていうほど実は難しい事はないという事だ。
1芸に才出ている人であればそれなりに生きる道は決まるんだけれど、
ただ真面目で普通の成績の生徒は将来何をやって良いのか?
それとも何を信じてやれば良いのか意外と軸を持てないケースがある。
私自身も何のとりえもない生徒だった学生時代は全く将来を見通せなかった。
社会人になってから数年間言われるがままだったけれど、
1つ道を外れた事で違った道を歩みそこで色々な知識を得て今に至る。
全て平均値ほど難しいものはないという事だ。
良くもなく、悪くもない生徒っていざ社会で会社が採用しようとする時
何を持って採用するのか1番難しい人物になる。
就職でアピールする時例えばこれは絶対負けませんという人と
何でもできますという人どちらが採用され易いか?
と問われれば絶対負けませんという方を採用し易いだろう。
何でもできますというのはある意味特技が無いという事になり、
いざ何をやらせるにも平均値以上は望めない。
今の会社では何でもできる事も必要だが、
何かの強みが無ければ生き残れないのも事実である。
私の場合は趣味から始めたパソコンが再就職の時に役だったし、
今でもその強みを活かしている。
鈴木先生は何かの1芸に才出ている生徒よりも平均値の生徒と向き合う教師である。
そんな中で鈴木先生には小川蘇美という女子生徒がおり、
女性として気になってしまう存在だった。
この14歳という年齢って実に女性らしくなる年齢であり、
難しい年齢でもあるからそういう妄想に駆られる
鈴木先生もまた1人の人間という事だ。
私は教師も1人の人間であり結婚もすれば子供もできる。
そんな中で教職という神々しく扱う教育ほど違和感を覚えるというものだ。
勉強の内容を教える事も重要だが、人間らしく個性を重視する事も必要であり、
それを教師1人が自分の思った通りにならないからって体罰をしてよいものではない。
ここでは生徒に対する体罰は一切出てこないんだけれど、
それは体罰なしでも教育できるという事を鈴木先生は示しているのだろう。
そしてこのストーリーで1番重要なシーンである生徒会選挙についてだけれど、
学校の教育の中で生徒会長を決める選挙をやる事は
将来選挙権を持った時の事をシュミレーションする事になる。
ただここで引っ掛かるのは公正とは何だ?という事だ。
まず該当者なしという訳にはいかないのでそれぞれ立候補及び推薦者を決める。
そしてそこでクラスの中で2人以上の立候補者が出るんだけれど、
ルール上1クラス1人というルールが無い訳で推薦なら
ともかく立候補なら2人以上でも問題はない。
ただクラスとして考えると1クラス1人の方が組織票という存在が見込めるのだが、
ここが最大の教育観点でのポイントになる。
ここに登場する足子瞳先生が公正な選挙の為記名による
投票実施を訴えて生徒会選挙を公正な選挙にしましょうという張り紙をする。
ただこれには1つの過去の出来事でこれが公正なのでしょうか?
という訴えるシーンがあるんだけれど、確かに公正とは全員が投票する事なのか?
という問いに私たち大人も難しい議題を突きつけられた想いだった。
これは何を持って公正な投票とするか?という事だけれど、
これは実際の選挙でもそうなんだけれど、
投票するに当たって何を決めて投票しているか?
このストーリーでは実に解り易かったんだけれど、
ある小学校で人気子役が生徒会に立候補しました。
しかしその時にはそれ以上に相応しい生徒がいました。
しかし投票結果は人気子役が生徒会長に選ばれました。
記名投票による全員投票だった事で人気ある人に集中してしまったという事です。
政治の世界でもこういうケースはあるもので、
全く政治実績はないが人気だけは誰にも負けない候補者と、
数多くの政治実績があり将来の首相候補の一騎打ちをした場合
政治の事を全く考えず投票すれば真剣に政治の事を考えて投票している人の票を
上回る現象が起きても何の不思議が無いという事です。
いわゆる組織票とも言えますが、
ここで1つ間違ってほしくないのは必ず投票する事が正しいのか?という事です。
現状の選挙では多数決で決める選挙ゆえどうしても人気ある人に
票が集まるのはある意味仕方ない事です。
ただこれが本当に政治の事を真剣に考えている人だけの投票だったら
同じ結果になるでしょうか?という事をここで言いたいのでしょう。
確かに私もある仕事でそういう事を毎回考えさせられますが、
真剣に考えてその想いを込めて投票している票とあきらかに
組織票的な票になるケースは感じる事ができます。
幸い私の関わる仕事ではそういう組織票はありませんので
公開による公正さある投票となっています。
色々な投票があるけれど裏で話し合われる投票ほど
公正さを欠くという事になると思うんですよね。
よく読者投票以外の審査員投票なんて話し合い
次第では読者投票下位でも1位になるケースだったあるんです。
そうなると読者投票は何だったのか?となるという事です。
その意味では専門家と別枠にする投票は公正さがあるとは思えないんですよね。
ただここの中で出てくる生徒会選挙についてですが、
実際の選挙を考慮して私見を述べると票を投じるという事は
その時点で責任が生じるという事です。
責任とはその投じた人が失態を起こしても
その失態を投票者が受け入れるという事です。
それが投票者の責任です。
投票しなかった人には責任は生じませんが、
その変わり意見を述べる権利を失います。
賛成も反対も該当者なしも投じていない人に対して選ばれた人が決める事を
批判する権利を放棄したと同じ意味が投票しないという意味になります。
このストーリーでは足子瞳先生が実に良い事を言っていましたが
白票より該当者なしの方が意味があるという事です。
個人的には白票も該当者なしも意味は一緒ですが
唯一違うとすれば白票はこの選挙に対する制度に抗議するという意味であるなら、
どういう制度なら良いのか述べる義務が生じます。
それが述べられないなら該当者なしと投票するか?
ただ黙って決められた事に従うか?という事になります。
制度に反対する以上それに代わる代案が必要という事です。
ここで登場する候補者の中に制度を代えますと公約をしている生徒がいますが、
当選後どう変えるのか?と問われたら答えられませんでした。
それを話し合って決めるという事になるのでしょうが、
正直明確に決めるとすれば賛成、反対、該当者なしに投じた人については
どの候補者になったとしてもその政策について批判する権利を持ちます。
例え思った通りの候補者が当選したとしても入れた人が
当選者と必ず同じ意見という訳ではありませんし、
全てをYesという必要はありません。
しかしだからといったただ反対すべきではありません。
必ず対案を述べられるだけ術を持って反対しましょう。
1番最悪な答えはこの人はダメだ!
良くなれば誰でも良い!
という答えほど最悪な答えはありません。
そういう人ほど誰に決まっても必ず文句が出てきます。
例えがこれはあるサッカーや野球チームの監督に対して
ファンやサポーターが解任を求めました。
結果その要求に応えました。
しかしその後どうするのかは解任したチーム側が決めなければなりません。
そこで誰でも良いのでしょうか?
違いますよね?
チームは1つの会社と捉えてください。
その会社にはそれぞれ特徴があり、
監督が代われば方針が大きく変わるケースも少なくありません。
これまで築き上げたものを全てリセットするという事を指します。
でもそれで良くなるケースはあまりありません。
それはトップが代わっても選手は代わらないからです。
その上で前の形を壊さずに向上できる人は誰なのか?
そこで真剣に考えられる人、誰でも良いと真剣に考えられない人との差が出ます。
真剣に考えてこの人と上げられる人はそれだけ真剣に考えた結果でもあるし、
確り理由を述べられれば名前とこれまでの実績という事で周りに説明し易い。
しかし誰でも良いという人はそれができるでしょうか?
事と次第によっては犯罪者でも良いという事になります。
誰でも良いと言う事はそれだけ無責任な発言だと
この年代で確り教える事が必要なのだと私は思います。
実は昨年うちのチームが監督交代する事になった時監督を誰にするかという事が
全く発言されていなかった事で考えが違ってもお金を問わず
誰にすべきか真剣に考えるべきだ!とツイートした事があって、
その中で私が考える監督候補を確り述べた事がありました。
実際にその通りに監督が就任したのですが、
その時点で私に責任が生じる訳です。
そして白票を投じた人についてはこの投票制度をどうするべきか述べる必要があります。
述べられないなら投じるべきではありません。
そして棄権した人については一切のの批判する権利、決められた事に従う事です。
次に問題になったのは社会問題にもなる中学生を標的とする
わいせつ事件により普通に公園にいるだけの人が
居場所を失うというケースが描かれている。
確かに何か事件があると事ある事に警戒を強化したり、
それまで普通にあった喫煙所が撤去されていたりする。
演劇の練習を郊外で行っているんだけれど、
一般の人がいる中で演劇練習を外でするのはどうなのかな?と感じるんだけれど、
何故屋上を推奨しなかったんでしょうね?という事になる。
自主練という事もあるのでしょうが、
これがある事件を引き起こす事になるのだが、
何か事件がある事で喫煙所が撤去される事についてだけれど、
公園で喫煙する場所の有無についてはやはり場所を限定する事が必要だと思う。
完全に無くすと喫煙者の居場所を無くすだけなので私自身たばこを吸わないが、
そういう人たちの場所を奪う権利は私は無いと思う。
社会に出ればそういう吸う人も場所さえ与えれば違法ではないだけに
場所は確保すべきだろう。
そしてここで1番核心的なシーンとなる鈴木先生の教育論を侵入してきた
犯人に語り掛けるシーンだけれど、言っている事は正論ではあるんだけれど、
これを教師が話すとある意味偽善者に映るんですよね。
鈴木先生の普通の生徒に目を掛ける事は教育的には盲点を突いている事だと
感じるので悪い事じゃない。
ただこの事件については何が問題なのか?という点だ。
事件を起こした犯人像は真面目に勉強して言われた通りの事を
言われた通りにするという人物像だけれど、
このタイプで適任の仕事は生産ラインが決まっている製造業になるだろうけれど、
まるで俺たちは使い物にならなかったと述べている。
何を持って使い物にならず社会から見捨てられるという事になるのかは
正直難しい事であるんだけれど、
言われた事を言われた通りにやる事ももちろん大切だが、
そこで疑問をもって物事に取り組んでいるか否か?という部分が1番重要だ。
仕事をしていると言われた通りに事が進むばかりじゃない。
私の場合は予想外の事ばかり起きるから何時も最悪の事態を考えているんだけれど、
問題は言われた事をやるためにどうするべきなのか?という部分が欠如している。
社会では言われた以上の事を実際に求められているケースが少なくない。
その中で求められた以上の結果を残せるか?残せないか?で評価が分かれてくる。
その中で現状以外の事も見る視点が必要である。
強いて言えばこの事件を起こした犯人に欠けていた事は
自発的にやる事に対する術を知らなかったという事だ。
それが思わぬ方向で事件に結びついてしまった訳だけれど、
確かにどうにもならない事だってあるのが社会だ。
その中で自分をどうやって演じるのか?という事を鈴木先生は説いている。
これは具体的に言えば仕事の時に自分、仕事以外の自分をどう演じるのか?という事だ。
ストーリーで演劇について語られたシーンだが、
社会に出ると何かを演じる位でないと務まらない事もある。
鈴木先生が教師を演じているように、それぞれ社会にできた時に受付嬢だったり、
営業マンだったり、それぞれ仕事で仕事の役を演じなければならない。
それは当然だ。
仕事ではその仕事を演じなければならない訳でそれが仕事であるという事でもある。
その意味で仕事=演じるという説明は理に適っている。
私は普段は仕事では普通の事務員、
プライベートではブロガー、もう1人の自分を演じていますからね。
果たして鈴木先生が生徒に伝えたかったとは何だったのか?
結末は劇場で観てほしいけれど、
1点を除けばほぼパーフェクトな作品になっているんだけれど、
とにかく鈴木先生というのは物事を考えるという事を教えている教師なのだと感じる。
鈴木先生も演じている教師を離れれば普通の人ですから
当然色々な妄想もするわけです。
それは私自身否定しません。
別に妄想して何が悪い?
それを表に出さなければ何も問題ない訳であり、それを悟られなければ良い訳です。
今回事件を起こした犯人も表に出さなければこのような事件を起こす事はなかった。
ただ1つ言える事は何も悪い事をしていない人の場所を奪う権利はないという事だ。
居場所を失った人にとって外の公園は社会に関われる場所だという事を
描いた事は大きな意味を持つと思うし、
そういう場所が必要だという事も描かれた事は良かったと思います。
総評として身近に起きる様々な問題を14歳の生徒たちが真剣に考えている姿には
私たち大人が真剣に考えないで安易な答えを出しているのではないか
という疑念を鈴木先生に投げかけられた気持ちでした。
1票の重みと意味を普段から考えている人とそうでない人の差、
そして決めた以上その責任をその時点で背負っているという事も
14歳の生徒たちに教えていた事は非常に大きい。
何を持って公正とするかも真剣に考えなければならないが、
少なくても全員参加が公正ではないという事だけは
この時点で1つの結論として言える事だ。
賛成、反対、該当者なし、白票、棄権という5択の意味を今一度真剣に考え、
そして普通の生徒が自分のやりたい事、
そして自分で考えていく術を教える事こそ真の教育なのかもしれない。

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以前からドラマブロガーの間で知っていたんだけれど、
私の住む地域ではリアルタイムでは視聴できず、
放送されても深夜1時だった事もあり観る事はなかった。
ゆえに映画のみの率直な鈴木先生に対するレビューとなる訳だが、
実に色々と考えさせられる問題が多い作品である事は言えるし、
大人でも答えを導き出す事が難しい問題について果たして
私自身どう答えを述べる事ができるのかレビューしながら考えていきたいし、
本当に教育としてあるべき姿とは何なのかを考えてレビューしたい。
キャスト
鈴木章演じる長谷川博己
鈴木麻美演じる臼田あさ美
山崎潔史演じる山口智充
桃井里香演じる田畑智子
江本源三演じる赤堀雅秋
岡田征志演じる山中聡
川野達郎演じるでんでん
小川蘇美演じる土屋太鳳
中村加奈演じる未来穂香
出水正演じる北村匠海
神田マリ演じる工藤綾乃
平良美祝演じる刈谷友衣子
勝野ユウジ演じる風間俊介
田辺満演じる浜野謙太
白井演じる窪田正孝
続木護演じる 夕輝壽太
足子瞳演じる富田靖子
五井正子演じる歌川椎子
伊福部直孝演じる斉木しげる
他多数のキャストでストーリーが進行する。
ストーリー
一見普通に見える生徒達ほど、心の中には鬱屈したものを抱えていると感じている、
黒縁メガネとループタイがトレードマークの悩める国語教師・鈴木先生。
教育現場の常識を打ち破り、独自の<鈴木式教育メソッド>を駆使して、
理想のクラスを作り上げようと奮闘しているが、
妊娠中の妻・麻美がいるにも関わらず、
自身の“実験教室”に不可欠な“スペシャルファクター”となる
女子生徒・小川蘇美を重要視するうちに、良からぬ妄想をすることもしばしば。
やがて、二学期が始まり、生徒会選挙と文化祭の準備に追われるなか、
教育方針の対立により“壊れてしまった”天敵の家庭科教師・足子先生が、休養から復活。
さらに、ドロップアウトしてしまった卒業生・勝野ユウジが学校に立てこもり、
小川が人質に取られるという史上最悪の事件が発生。
どうする、鈴木先生!?
以上映画 鈴木先生HPより
結末は劇場で観てほしいけれど、
今回のレビューとして、2時間15分の作品として
これだけ色々な問題を考えさせられる作品も珍しい位考えさせられた。
まず鈴木先生からだけれど、
鈴木先生は何処にでもいる平凡な教師ではあるが
エリートの道を歩んだ訳ではなくそれゆえ独自の教育論を持っている。
鈴木先生の場合個性ある生徒よりも真面目で普通の生徒に目を掛けるというものだ。
このストーリーでは重要なカギを握るのだが、
普通っていうほど実は難しい事はないという事だ。
1芸に才出ている人であればそれなりに生きる道は決まるんだけれど、
ただ真面目で普通の成績の生徒は将来何をやって良いのか?
それとも何を信じてやれば良いのか意外と軸を持てないケースがある。
私自身も何のとりえもない生徒だった学生時代は全く将来を見通せなかった。
社会人になってから数年間言われるがままだったけれど、
1つ道を外れた事で違った道を歩みそこで色々な知識を得て今に至る。
全て平均値ほど難しいものはないという事だ。
良くもなく、悪くもない生徒っていざ社会で会社が採用しようとする時
何を持って採用するのか1番難しい人物になる。
就職でアピールする時例えばこれは絶対負けませんという人と
何でもできますという人どちらが採用され易いか?
と問われれば絶対負けませんという方を採用し易いだろう。
何でもできますというのはある意味特技が無いという事になり、
いざ何をやらせるにも平均値以上は望めない。
今の会社では何でもできる事も必要だが、
何かの強みが無ければ生き残れないのも事実である。
私の場合は趣味から始めたパソコンが再就職の時に役だったし、
今でもその強みを活かしている。
鈴木先生は何かの1芸に才出ている生徒よりも平均値の生徒と向き合う教師である。
そんな中で鈴木先生には小川蘇美という女子生徒がおり、
女性として気になってしまう存在だった。
この14歳という年齢って実に女性らしくなる年齢であり、
難しい年齢でもあるからそういう妄想に駆られる
鈴木先生もまた1人の人間という事だ。
私は教師も1人の人間であり結婚もすれば子供もできる。
そんな中で教職という神々しく扱う教育ほど違和感を覚えるというものだ。
勉強の内容を教える事も重要だが、人間らしく個性を重視する事も必要であり、
それを教師1人が自分の思った通りにならないからって体罰をしてよいものではない。
ここでは生徒に対する体罰は一切出てこないんだけれど、
それは体罰なしでも教育できるという事を鈴木先生は示しているのだろう。
そしてこのストーリーで1番重要なシーンである生徒会選挙についてだけれど、
学校の教育の中で生徒会長を決める選挙をやる事は
将来選挙権を持った時の事をシュミレーションする事になる。
ただここで引っ掛かるのは公正とは何だ?という事だ。
まず該当者なしという訳にはいかないのでそれぞれ立候補及び推薦者を決める。
そしてそこでクラスの中で2人以上の立候補者が出るんだけれど、
ルール上1クラス1人というルールが無い訳で推薦なら
ともかく立候補なら2人以上でも問題はない。
ただクラスとして考えると1クラス1人の方が組織票という存在が見込めるのだが、
ここが最大の教育観点でのポイントになる。
ここに登場する足子瞳先生が公正な選挙の為記名による
投票実施を訴えて生徒会選挙を公正な選挙にしましょうという張り紙をする。
ただこれには1つの過去の出来事でこれが公正なのでしょうか?
という訴えるシーンがあるんだけれど、確かに公正とは全員が投票する事なのか?
という問いに私たち大人も難しい議題を突きつけられた想いだった。
これは何を持って公正な投票とするか?という事だけれど、
これは実際の選挙でもそうなんだけれど、
投票するに当たって何を決めて投票しているか?
このストーリーでは実に解り易かったんだけれど、
ある小学校で人気子役が生徒会に立候補しました。
しかしその時にはそれ以上に相応しい生徒がいました。
しかし投票結果は人気子役が生徒会長に選ばれました。
記名投票による全員投票だった事で人気ある人に集中してしまったという事です。
政治の世界でもこういうケースはあるもので、
全く政治実績はないが人気だけは誰にも負けない候補者と、
数多くの政治実績があり将来の首相候補の一騎打ちをした場合
政治の事を全く考えず投票すれば真剣に政治の事を考えて投票している人の票を
上回る現象が起きても何の不思議が無いという事です。
いわゆる組織票とも言えますが、
ここで1つ間違ってほしくないのは必ず投票する事が正しいのか?という事です。
現状の選挙では多数決で決める選挙ゆえどうしても人気ある人に
票が集まるのはある意味仕方ない事です。
ただこれが本当に政治の事を真剣に考えている人だけの投票だったら
同じ結果になるでしょうか?という事をここで言いたいのでしょう。
確かに私もある仕事でそういう事を毎回考えさせられますが、
真剣に考えてその想いを込めて投票している票とあきらかに
組織票的な票になるケースは感じる事ができます。
幸い私の関わる仕事ではそういう組織票はありませんので
公開による公正さある投票となっています。
色々な投票があるけれど裏で話し合われる投票ほど
公正さを欠くという事になると思うんですよね。
よく読者投票以外の審査員投票なんて話し合い
次第では読者投票下位でも1位になるケースだったあるんです。
そうなると読者投票は何だったのか?となるという事です。
その意味では専門家と別枠にする投票は公正さがあるとは思えないんですよね。
ただここの中で出てくる生徒会選挙についてですが、
実際の選挙を考慮して私見を述べると票を投じるという事は
その時点で責任が生じるという事です。
責任とはその投じた人が失態を起こしても
その失態を投票者が受け入れるという事です。
それが投票者の責任です。
投票しなかった人には責任は生じませんが、
その変わり意見を述べる権利を失います。
賛成も反対も該当者なしも投じていない人に対して選ばれた人が決める事を
批判する権利を放棄したと同じ意味が投票しないという意味になります。
このストーリーでは足子瞳先生が実に良い事を言っていましたが
白票より該当者なしの方が意味があるという事です。
個人的には白票も該当者なしも意味は一緒ですが
唯一違うとすれば白票はこの選挙に対する制度に抗議するという意味であるなら、
どういう制度なら良いのか述べる義務が生じます。
それが述べられないなら該当者なしと投票するか?
ただ黙って決められた事に従うか?という事になります。
制度に反対する以上それに代わる代案が必要という事です。
ここで登場する候補者の中に制度を代えますと公約をしている生徒がいますが、
当選後どう変えるのか?と問われたら答えられませんでした。
それを話し合って決めるという事になるのでしょうが、
正直明確に決めるとすれば賛成、反対、該当者なしに投じた人については
どの候補者になったとしてもその政策について批判する権利を持ちます。
例え思った通りの候補者が当選したとしても入れた人が
当選者と必ず同じ意見という訳ではありませんし、
全てをYesという必要はありません。
しかしだからといったただ反対すべきではありません。
必ず対案を述べられるだけ術を持って反対しましょう。
1番最悪な答えはこの人はダメだ!
良くなれば誰でも良い!
という答えほど最悪な答えはありません。
そういう人ほど誰に決まっても必ず文句が出てきます。
例えがこれはあるサッカーや野球チームの監督に対して
ファンやサポーターが解任を求めました。
結果その要求に応えました。
しかしその後どうするのかは解任したチーム側が決めなければなりません。
そこで誰でも良いのでしょうか?
違いますよね?
チームは1つの会社と捉えてください。
その会社にはそれぞれ特徴があり、
監督が代われば方針が大きく変わるケースも少なくありません。
これまで築き上げたものを全てリセットするという事を指します。
でもそれで良くなるケースはあまりありません。
それはトップが代わっても選手は代わらないからです。
その上で前の形を壊さずに向上できる人は誰なのか?
そこで真剣に考えられる人、誰でも良いと真剣に考えられない人との差が出ます。
真剣に考えてこの人と上げられる人はそれだけ真剣に考えた結果でもあるし、
確り理由を述べられれば名前とこれまでの実績という事で周りに説明し易い。
しかし誰でも良いという人はそれができるでしょうか?
事と次第によっては犯罪者でも良いという事になります。
誰でも良いと言う事はそれだけ無責任な発言だと
この年代で確り教える事が必要なのだと私は思います。
実は昨年うちのチームが監督交代する事になった時監督を誰にするかという事が
全く発言されていなかった事で考えが違ってもお金を問わず
誰にすべきか真剣に考えるべきだ!とツイートした事があって、
その中で私が考える監督候補を確り述べた事がありました。
実際にその通りに監督が就任したのですが、
その時点で私に責任が生じる訳です。
そして白票を投じた人についてはこの投票制度をどうするべきか述べる必要があります。
述べられないなら投じるべきではありません。
そして棄権した人については一切のの批判する権利、決められた事に従う事です。
次に問題になったのは社会問題にもなる中学生を標的とする
わいせつ事件により普通に公園にいるだけの人が
居場所を失うというケースが描かれている。
確かに何か事件があると事ある事に警戒を強化したり、
それまで普通にあった喫煙所が撤去されていたりする。
演劇の練習を郊外で行っているんだけれど、
一般の人がいる中で演劇練習を外でするのはどうなのかな?と感じるんだけれど、
何故屋上を推奨しなかったんでしょうね?という事になる。
自主練という事もあるのでしょうが、
これがある事件を引き起こす事になるのだが、
何か事件がある事で喫煙所が撤去される事についてだけれど、
公園で喫煙する場所の有無についてはやはり場所を限定する事が必要だと思う。
完全に無くすと喫煙者の居場所を無くすだけなので私自身たばこを吸わないが、
そういう人たちの場所を奪う権利は私は無いと思う。
社会に出ればそういう吸う人も場所さえ与えれば違法ではないだけに
場所は確保すべきだろう。
そしてここで1番核心的なシーンとなる鈴木先生の教育論を侵入してきた
犯人に語り掛けるシーンだけれど、言っている事は正論ではあるんだけれど、
これを教師が話すとある意味偽善者に映るんですよね。
鈴木先生の普通の生徒に目を掛ける事は教育的には盲点を突いている事だと
感じるので悪い事じゃない。
ただこの事件については何が問題なのか?という点だ。
事件を起こした犯人像は真面目に勉強して言われた通りの事を
言われた通りにするという人物像だけれど、
このタイプで適任の仕事は生産ラインが決まっている製造業になるだろうけれど、
まるで俺たちは使い物にならなかったと述べている。
何を持って使い物にならず社会から見捨てられるという事になるのかは
正直難しい事であるんだけれど、
言われた事を言われた通りにやる事ももちろん大切だが、
そこで疑問をもって物事に取り組んでいるか否か?という部分が1番重要だ。
仕事をしていると言われた通りに事が進むばかりじゃない。
私の場合は予想外の事ばかり起きるから何時も最悪の事態を考えているんだけれど、
問題は言われた事をやるためにどうするべきなのか?という部分が欠如している。
社会では言われた以上の事を実際に求められているケースが少なくない。
その中で求められた以上の結果を残せるか?残せないか?で評価が分かれてくる。
その中で現状以外の事も見る視点が必要である。
強いて言えばこの事件を起こした犯人に欠けていた事は
自発的にやる事に対する術を知らなかったという事だ。
それが思わぬ方向で事件に結びついてしまった訳だけれど、
確かにどうにもならない事だってあるのが社会だ。
その中で自分をどうやって演じるのか?という事を鈴木先生は説いている。
これは具体的に言えば仕事の時に自分、仕事以外の自分をどう演じるのか?という事だ。
ストーリーで演劇について語られたシーンだが、
社会に出ると何かを演じる位でないと務まらない事もある。
鈴木先生が教師を演じているように、それぞれ社会にできた時に受付嬢だったり、
営業マンだったり、それぞれ仕事で仕事の役を演じなければならない。
それは当然だ。
仕事ではその仕事を演じなければならない訳でそれが仕事であるという事でもある。
その意味で仕事=演じるという説明は理に適っている。
私は普段は仕事では普通の事務員、
プライベートではブロガー、もう1人の自分を演じていますからね。
果たして鈴木先生が生徒に伝えたかったとは何だったのか?
結末は劇場で観てほしいけれど、
1点を除けばほぼパーフェクトな作品になっているんだけれど、
とにかく鈴木先生というのは物事を考えるという事を教えている教師なのだと感じる。
鈴木先生も演じている教師を離れれば普通の人ですから
当然色々な妄想もするわけです。
それは私自身否定しません。
別に妄想して何が悪い?
それを表に出さなければ何も問題ない訳であり、それを悟られなければ良い訳です。
今回事件を起こした犯人も表に出さなければこのような事件を起こす事はなかった。
ただ1つ言える事は何も悪い事をしていない人の場所を奪う権利はないという事だ。
居場所を失った人にとって外の公園は社会に関われる場所だという事を
描いた事は大きな意味を持つと思うし、
そういう場所が必要だという事も描かれた事は良かったと思います。
総評として身近に起きる様々な問題を14歳の生徒たちが真剣に考えている姿には
私たち大人が真剣に考えないで安易な答えを出しているのではないか
という疑念を鈴木先生に投げかけられた気持ちでした。
1票の重みと意味を普段から考えている人とそうでない人の差、
そして決めた以上その責任をその時点で背負っているという事も
14歳の生徒たちに教えていた事は非常に大きい。
何を持って公正とするかも真剣に考えなければならないが、
少なくても全員参加が公正ではないという事だけは
この時点で1つの結論として言える事だ。
賛成、反対、該当者なし、白票、棄権という5択の意味を今一度真剣に考え、
そして普通の生徒が自分のやりたい事、
そして自分で考えていく術を教える事こそ真の教育なのかもしれない。



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